司馬江漢(1738〜1818)江戸時代の画家。江戸の芝に住んでいたことから司馬姓を名乗ってます。 彼は元々狩野派の画家でしたが、平賀源内の影響もあって、洋画家に転向しました。 当時の西洋文化の入り口は当然長崎。そのため司馬江漢も画修行のため長崎出島を訪れています。 江漢は天明8年4月23日(1788年5月28日)江戸を発ち、10月10日(1788年11月7日)に長崎に到着。11月14日まで滞在しています。 この時の紀行を「西遊旅譚」として寛政6年(1794年)に刊行し、文化12年(1815年)これを改稿し「西遊日記」としました。 この「西遊日記」の天明8年10月25日(1788年11月22日)に 「池の上に橋あり。其上に涼み所あり。玄関の様なる処より入りて、坐しきへ通り、夫(それ)より玉つきと云処を見物す。是は碁、双六などする様なる者にて、戯なり。四尺に七尺程に羅紗を張りて机の如し。夫に玉を置き、馬を打ムチの如き棒にてつく事也。四所に玉の落る所ありて、それえつき入る事なりとぞ。」 と、出島での玉突きのことが記載されています。 「西遊日記」には画家らしくカピタン部屋の挿絵が載っていますが、残念ながら玉つきに関しては絵は残していません。が、「棒にてつく」とあることからメース使用ではなくキューで突いていたのは間違いないでしょう。 さて「四所に玉の落る所」ですが、この時の台は4つ穴だったのでしょうか?そうするとアーチ型台と6つ穴式の台の間に4つ穴式の台が置かれていた時期があることになります。 勿論江漢の出島訪問から「西遊旅譚」刊行まで期間があることから記憶違いということも考えられますが。 もうひとつ問題。「玉つき」とありますが、ビリヤード※の和訳として「玉つき」という言葉が使われたのはこれが初めてではないでしょうか? もちろんこれは江漢の造語ではないことは「西遊日記」からも明らかです。 ではこの時江漢は誰にビリヤードの説明を受けたのでしょうか。 江漢はこの日出島でオランダ通詞(通訳・翻訳事務)吉雄耕牛に逢い、彼の申し付けで二人の日本人(上村徳太郎・稲部松十郎 下級の通詞?)が案内・通訳を務めています。彼らが江漢にオランダ人のビリヤードを「玉つき」と説明したとみるのが一番自然でしょう。つまり通詞のあいだではビリヤードのことを「玉つき」と呼んでいたのでは。 この吉雄耕牛、この時すでに大通詞職40年以上の大ベテラン。蘭方医術を身につけ、多くの文献を翻訳してますし、自宅の二階をオランダ風にして洋書や絵画を集めているんですから、もう日本一のオランダ通。 そしてこの型の玉つき台が日本に入ってきたのは吉雄耕牛在任中の可能性大。 私は日本で初めて「ビリヤード」を「玉つき」と和訳したのは彼じゃないかと睨んどります。いやもうあくまでも推測なんですけどね。 ちなみに江漢はこの旅行、最初の目的は画修行のためでしたが、結局物見遊山の旅になってしまい、絵の勉強にはまったくならなかったそうです。 ※オランダ語だとBILJAETですし、勿論当時のオランダ人は別の名称で呼んでた可能性もありますが、便宜上ビリヤード。 参考文献 江漢西遊日記 ー司馬江漢ー 芳賀徹 太田理恵子 校注 東洋文庫 461 江戸の蘭方医学事始 阿蘭陀通詞・吉雄幸左衛門 耕牛 片桐一男 丸善ライブラリー |