1875年(明治8年)頃 女流撞球家現る

2001.09.16

 正確な年代は不明ですが明治8年から10年頃、上野池の端にある明光軒のおきんという女性が日本で最初の職業女流撞球家だそうです。
 女流撞球家といってもまだ日本のビリヤード自体のレベルが低かった頃ですから、男性にも負けない技術を持っていたとか、勝負強いとかではなく、相手のいないお客の相撞きなどをする看板娘的な人ではなかったのでしょうか。
女性の社会的地位が大変低い時代、ましてや一般の女性が玉突きをするなんて考えられない時代ですから、おきんさんは珍しく、人気があったのではないかと思います。

 その後、やはり女性がいたほうがよろしいのか、撞球場には独特のイントネーションでお客さんの点数を数える「ゲーム取り」「点取り」と呼ばれる若い女性が働くようになります。
こちらを目当てに通う人も多かったようです。

参考文献 撞球指南 玉乃 一熊 民友社
撞球場日記 東京撞球普及会


※追記 「明治西洋料理起源 岩波書店」 に西洋料理店で池の端の明光軒の記載がありましたので、この店はメインは洋食屋だったかもしれません。するとおきんさんはウェイトレスもなさっていたのかも・・・(2001.09.19)


常連達

「おきんさん、僕達おきんさんの後援会を結成しました」

おきんさん

「あら、本当?」

常連達

「で、おきんさんを称える歌を作りました。聞いてください」

おきんさん

「まぁ!嬉しいわ!」

常連達

「上野池の端に日が昇る。
今日も元気なおきんさん。
おきん 玉を突く
おきん 玉を突く
お きん玉を突く
お きん玉 を突く〜

おきんさん

「お前ら つボイノリオかよ!」